1月11日 月曜日 晴れ
仕事明け。通常通り6時に起きて各種スイッチONのち布団にもぐりこんだ。ちょっと寝るだけのつもりが結局8時まで寝た。この間も時給は発生しているが、まあ、何かあれば飛び起きる体勢かつ、毎回早めにきているから、セフセフである。職場の許可はとっている。要するに、いることが仕事なのだ。
無事に仕事を終えてシャワって11時半には外へ出た。寒い。休みらしいが緊急事態宣言も近いからか、昼過ぎまでは贔屓の喫茶店も空いていた。珈琲に映る電灯を眺めながら、あぁ新しい友人の一周忌を思い出した。
14時過ぎ、人も増えてきたので退席。古本屋にて『変態十二史』の半数が安く出ていたので、思わず買ってしまった。どうせなら残りも揃えたい。
帰り道、ディレクターより連絡があったとチーム連絡。面倒である。つか。先月下旬前には提出したもので、しかもすでに音響に回ってるって言ってたけど、回ってねえのか…(呆れ)早く、このタイトルを終えておさらばしたい人間関係のひとつである。
急ぎ、友人からの報告を受け対応して16時過ぎに、ウガンダ君、単身赴任の友人と楽しく雑談。20時過ぎ、大泉洋が出ている三国志の映画を観に行った。中だるみも多い内容だったが、まあB級ジョーク映画としてはなるほど、という感じだった。
帰宅後、昔読んだ三国志のマンガが何だったか思い出せず検索。項羽と劉邦ももう一度読みたいと思った。夜、知人ラジオが始まっていたので、クソリプを投げにいき、楽しく拝聴。久しぶりな気がした。その後、ふと思い出してFLASHサイトを観に行くと閉じていた。あぁ…。
切ない。フラッシュフラッシュサイトの終わりを見て、改めて自己の終わりについて考える。究極的な意味への問い、または根源的な空しさの影に関して思う。地球が蒸発し、太陽も焼け尽きて、宇宙が止まる日、意味とは何なのか。
そのとき、冷たくなっていく宇宙は、暖かい超越の腕の中にあるのか。または抱き締められるがゆえに冷たくなるのか。歴史と要約されてしまう全事象のセンチメンタルは、遠い星の瞬きにも似て、思い出す頃には、もう手が届かない。
ただ物理的に運行する宇宙を宇宙足らしめるものが、人間であり、それはまさしく時間そのものである。時間の消失点は、果たして何も要請しないのか。本当にそうなのか。生命の喜怒哀楽四苦八苦、その根源的価値と意味は、やはり失われるのではなくて、見出されれるのではないか。万物の復興、またはペテロの手紙の写本一語にかかる願いは、吐息のように儚いものなのか。青年が幻を見、老人が夢を見て、子らが預言する時代は終末の燔祭として焚べるためだけに存在するのか。
茫漠として巨大な虚無を恐れることなく味わうようになるとは夢にも思わなかった。ただ、これが始原の闇に近いのだろう。ぼんやりとそんなことを思って目を閉じた。1時過ぎには就寝。