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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:出張決定、京都性、事務手続き

京都 宗教・歴史

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3月5日 木曜日 晴れ

 昨晩、友人たちが話しているのを聞きながら変な姿勢で寝落ちしたせいか、途中で何度か起きた。寒い。午前中は何もできずに終わった。午後、部屋の片づけをぼちぼちと。編集と連絡したりで、来週末、東京で開催される僕の新しい研究分野に関するシンポジウムに出席することを決めた。宿泊は知人が泊めてくれるのだが、交通費がなんとも。こういうときに関西とはいえ、中心地から離れていることを痛感する。関西は偉大な地方都市である。

 どうでもいいけど、京都を京都足らしめるものは、権威と権力の不在であり、その空洞性が形成する伝統が、そのまま丸山眞男のいう日本の思想的伝統としての三点のひとつ「無限抱擁性と思想的雑居性」に重なるように思う。もっとも他の二点である「歴史化せずに思い出となって忘却すること」また「個人の実感信仰と否定できない科学信仰」というのは、京都にはあまり当てはまらないかもしれない。

 もっとも日本人全体とはいえ、北海道、沖縄、東北、関東、日本海側、瀬戸内海、関西など各地の特色はあるので、明治以後に薄っすらと列島を覆った近代国家という共同幻想は、徳川三百諸侯以前の強い残り香には負けてしまうように思う。なれば、丸山が見た近代を後ろから眺める者として、ポストモダン、21世紀の初頭を歩む日本人としては、彼の思想装置と時代制約をどのように位置づけるのか、というのは、中々におもしろい話かもしれない。

 このあたり、キリスト教との関わりでいえば、無教会の内村、南原、矢内原、塚本とという近代史の評価となる。興味は尽きないし、明治期プロテスタントの歴史的評価に十分な蓄積が出来た今、大正から昭和前期の思想史を固めていく時期が来ているともいえる。

 一日、総じて何をするでもなく過ごして終わってしまった。やったことといえば、書類の整理とブログの更新くらいか。来週頭より入学手続きが始まるが、なんとか入学料と授業料の免除を受けたいものである。そうなると随分助かるんだけどなぁ。

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