どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:ロペ、夏性、狼男侍

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หนุ่มฝรั่งเศสเงิบ จับอภิมหาซุปเปอร์ปลาดุก ตัวใหญ่ยักษ์ยิ่งกว่าคนจับซะอีก!! | CatDumb.com - แคทดั๊มบ์ดอทคอม

8月19日 金曜日 曇り

 午前中、ブログ更新。資料整理。院生氏とエチオピア語エノク書の話になった。日本の近代化の核のひとつは翻訳学問であるが、エチオピア語エノク書も日本語で読める。凄いことだと思う。実力が足りないので無理だが、いつかゲエズ語などにも親しめるようになってみたいものである。ネットを流していたら上記の写真をみつけた。タイ語?なのだろうけど、ナマズ?すごい。人間は長くて80年から100年だが、他の時間スパンで生きている動物もいるというのは、楽しく不思議な話である。あと紙兎ロペを買った。

 昼食は学食へ。山菜冷やし蕎麦320円が安くてうれしい。今日はスクーリングなのか年代高めの客層である。院生氏、高知くんと話していて、なぜか話題は日本の四季へ。多くの日本人が日本に住んでいて良いと思う点として「四季」をいう。四季など、赤道から寒帯へ行く途中の国ならば、どこにでもあるわけだが、ここでいう「日本の四季」とは何か問題である。意外に、この話が楽しかった。

 そもそも夏の夏性とは何か。言い換えれば、日本人の多くが持っている原風景としての「夏」または「夏のイデア」とは何か。端的に分かりやすいものは、おそらく京都などに代表される象徴蓄積されたイメージの連なりである。

 帰国後、ひどく驚いたことがある。地元に戻る際、姫路から岡山へ行くには新幹線に乗るほかは在来線を使うしかない。在来線では一時間半かかる。そして、この姫路=岡山間の車窓には、中国地方的な原風景が広がっている。一駅ごとに通り過ぎていく田畑と人里、山々の風景が、決して幼少期をここで過ごしたわけではないのに郷愁や感傷を呼び覚ますのだ。すなわち、見たことのない景色に対する懐かしさ問題である。

 このあたり哲学の分野でいえば「共通感覚論」という。個人的には、夏休みや部活、ラノベ(ジュブナイル小説)、または思春期に見られる言語かできない切なさや感覚に通底する「夏」の夏性の起源がどこにあるのか、考えてみると興味深い。たとえば「時をかける少女」では原作はもとよりアニメでは奥華子の音楽が視聴者を問答無用で夏に引きずり込む力を持っている。

新しい学〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

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  高知くんの説によれば、蝉の声やひぐらしの鳴声は、言語ではなく聴覚によって無意識下で夏スイッチを押すのではないか、とか。なるほど、水田で啼くカエルの声音が蝉の合唱に変化していく中で、その湿度と暑さと夕闇の色合いが、つまり明確な文法と意味ではなく、音によって察知惹起されるイメージが、言語化できない感情のつらなりと分かち難く結びつき、夏の基底を為すのかもしれない。さらに、出会いと別れの季節という夏の持つ特性、非日常性がその基底から祭櫓のごとく経験の構造を定めて、夏を凝縮さしめ「日本の夏」足らしめるのかもしれない。

 しかし「夏」の感じ方は、戦前・戦後で変化があるのか。院生氏によれば戦争による地形・習慣の変化は、十分な感性の変容をもたらすのではないか、という。僕は、どちらかと言えば、あまり変わらないのではないか、と思う。価値判断は別にして、司馬遼太郎、丸山眞男らのいう「空洞性」と「思い出」としては変わらないのではないか。いや、知らんけど。また高層マンション住まいの都会の小学生は、果たして、これら「日本の夏」原風景を共有しているのだろうか。西日本と東日本では、沖縄と北海道ではどう違うのか。昭和という時代、テレビと茶の間、これらの普及と解体による差はどうか。

 余談ではあるが、この「夏」性の問題は、週末の「サザエさん症候群」にも通じるところがある。たぶん、三島由紀夫の終末論的感性にも。週末論から終末論へ...親父ギャグまで来たので、結論としては夏なんてファーーーッとなる(白目)

  午後、続けて、たらたらと修論資料の確認。夜、ウルヴァリン侍をみた。なんていうか、適当だなぁ。昨日みた未来&過去篇との落差が激しい。

にっき:19年目、ナウル、X-MEN

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8月18日 木曜日 晴れ

 昨日みたニュースを再び思う。ナウルの今だ。豊富なリン鉱石を資源にして全国民にベーシック・インカムを提供し、地上の楽園と謳われた。三世代にわたって「労働」という概念が消滅した南洋の島国。しかし、以下読めば書いてあることだが、全国民に楽園を供給するという影で、数百万年にわたって堆積した海鳥の糞が生成したリン鉱石は百年を待たずに使い尽くされ枯渇。2003年頃だったか、空港との連絡途絶をBBCが報じ政変かクーデターかと話題になったが、設備を維持できないという嘘のような本当の話だった。しかし、その後、天国は地獄へと化した。どんな島国にも起こり得た現実…。日本はたまたま島嶼と人口規模が大きかっただけだ。ナウルの過去と未来は、あり得た可能性である。

ナウル - Wikipedia


 午前中、読書会に参加。良い勉強になった。しばらく間を開けると様々なものを見聞きし、変化の余剰分で読み方が少し良くなるというのはある気がする。以前はあんなに難解に感じた文章が、すっと入ってくる。良い経験だった。それと昨日だったが、キリスト教徒になって19年目を迎えた。ふと思い出したが、去年ほどの感慨はない。これから八月の第三週を迎えるたびに、僕は受洗記念日とセカンドバースデイを迎え、神と共に過ごした年数が増えていく。来年の今頃はどこで何をしているのだろうか。

 昼食は院生氏、高知くんと近所のカレーへ。午後、ブログ更新、部屋の片付け。修論の検索用データがそろったので飛躍的に話が進む。見当をつけやすいというのは素晴らしい。夕食は割引き寿司と小エビの姿揚げ。うまい。

 夜、X-MENの未来と過去編をみた。楽しいが、二時間半は長い。あとは第一世代と侍、狼男ゼロをみれば、映画にいける。しかし、アマゾン、レンタル100円は有り難い。僕もミュータントになって何かの能力に目覚めないだろうか。なお、いまのところは何の能力もないのにミュータント扱いされる日々である。

にっき:見送り、中華、まとめ読んだ

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8月17日 水曜日 晴れ、くもり

 朝、友人を宿泊先である大阪なんばのホテルまで見送りにいった。久しぶりに窓際に座り、話しながら外を眺めた。乗り慣れると景色は忘れるものである。大阪に到着後、元同居人社会人氏も休みということで彼と合流し昼食へ。途中、エレベーターで中国人と思わしき観光客の若い女性がぐいと乗ってきた。皆荷物が大きいので必然、妙な前傾姿勢になることもあり、目の前に、その若い女性の大きく開いた胸元から下着が派手に見えた。事故である。面食らっていると、僕を察したのか彼女の連れの女性が、その若い女性の髪の毛で胸元を隠してくれた。危うく事案発生で逮捕されるところだったが、冤罪回避、何事もなくて良かった。

 昼食は通りがかりで。中国の方が沖縄で調理師免許をとって営む店である。かなり良い感じ。ランチは弁当500円、一盛で580円。大学付近でやれば死ぬほど儲かると思うが、果たして。にしても中華は世界中、どこに行っても美味しいというのは有り難い。英国のメシはマズいのか、英国から来ている友人がうまいと言っていたのが印象的だった。

 それにしてもなんば界隈、観光客が多い。おそらく、ほとんどが中国と韓国からである。10年前、15年前にはなかった景色だと思うが、アジアの辺境国たる我が国においては、これが割にデフォルトの景色だったのかもしれない。政治的、文化的な価値判断は僕には分からない。いわゆる近代国家の枠組みが、たとえばネットやiPhoneという技術を下敷きにした生活スタイルによって均質化して、事実上手続きのみになっていくのはあり得よう。そうなると浸透膜としての国境線の機能・意味もおのずと変化するのだろう。

 食後、道路工事がやたらうるさい珈琲屋へ行き、そのあと友人たちと別れた。次に会うのはいつだろうか。行きつけの喫茶店にいき、読書&歓談。夜、久しぶりに大量に哲学ニュースを読んだ。楽しい。あとX-MENの続きを見るために、見ていないのを観なくてはならない。