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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:母方祖母、帰省、自分探しの終え方

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7月3日 日曜日 快晴のち曇り

 日曜朝なので礼拝へ。御御堂に入る前、時間を確認して母からの不在着信、未読メールに気づく。母方祖母の訃報。朝7時半くらいに電話もあったようだが、気づかなかった。すぐに折り返して事情を把握。おそらく、ほぼ老衰とのこと。昨日、母と叔母で会いにいき今朝の未明には亡くなっていたらしい。祖母は叔父である長男一家と住み、ひ孫の顔もみて、娘二人に会って永眠したことになる。それを聞いて、ひどく安心した。

 お通夜、葬儀の日程を確認し、今すぐ出発しなくてはならないわけでもないので、そのまま教会へ。礼拝の最中、身近な人が亡くなることの衝撃に涙が出た。週報の表紙には6世紀イタリアの絵とともに「行きなさい、わたしはあなたがたを遣わす」ということばある。あぁ、そういえば、このことばを聞いて僕はキリスト教徒になったんだっけ。十数年前の夏の記憶が蘇り、一年半ほど前が最後となった祖母との面会の記憶が蝉の声に響いた。「主よ、憐みたまえ」と祈る典礼歌203が中々声にならなかった。聞きながらただ涙をこらえ、典礼歌204の中で目を上げると、僕の代わりに歌い祈る人々の姿があった。そこにあるのは、神の道具となった他者だった。教会の意味を実感させられた瞬間、神の御子の名が歌われる刹那、毎週しているように深く辞儀した。

 礼拝後、帰宅し弟に連絡。改めて予定を確認し、夕方の新幹線に乗り地元へ。有り難いことに乗り継ぎがよく待ち時間なく考えずに買った自由席でも座れた。行きしなの共に選んだのは、大林浩 著『死と永遠の生命』である。米国宗教学会の全国理事などを歴任された歴史主義から神学的課題に取り組む学者である。おもな活躍の場が米国なので、日本ではあまり知られていない。読みながら、あぁ、時機にかなう読書だなと思った。メソポタミアはシュメール、そしてエジプトの死後生観の比較に始まり、ギリシア、ペルシアの死生観を宗教史的に描き、ヘレニズムとヘブライズムの相克を旧約聖書から新約聖書へ、そしてキリスト教史へとつないでいく筆致は素晴らしい。母方祖母の訃報が遠く人類の死後生観と接続していく。

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 礼拝中、意外なことを思っていた。原理主義的・保守的なプロテスタントでは信仰を持たずに死んだ者は地獄で焼かれることになっている。十年前の僕ならばそうも思っただろうが、そういうことが一切浮かばなかった。一つは、そもそも信仰の同一性とは何かという大きな問題があること、もう一つは、分からないことは分からないという勇気の重要性である。前者に関して、たとえば4世紀エチオピアのキリスト教徒と21世紀日本のキリスト教徒の信仰的生がそもそも比較可能なのか、比較可能ならばその基準は何か、というコミュニケーション合理可能性の問いかけがある。時代と地域を隔てた二つが同じであっても異論はない。ただ仕組みが気になるのだ。

 より端的にいえば、キリスト教徒であるからか、またはいまの学んでいるものとの関係もあるのか、自分にあの世とこの世の境目があまりないことに気づいた。この一年半ほど母方祖母に会えていなかったわけだが、それと同じように、今後数十年は母方祖母と会わないという可能的事実の広がりを感じただけだった。最も、それさえも可能性の問題なので会うことだってあるかもしれない。平たくいえば、一般的な喪失感がなかった。父方の祖父母はまだ健在で、より身近なので、彼らがこの世を去るときには、別のことを感じるのだろうか。

 お通夜には間に合わないので、地元に残る唯一の友人に連絡して駅に迎えに来てもらった。一年前に一緒に沖縄に行って以来だろうか。スノボにはまったらしい。帰宅すると父親が大きな音でテレビを見ていた。耳が少しずつ遠くなっているのだろう。暑いので、クーラーをかけた。忘れていたが、実家にwifiは飛んでいない。本も持ってきたが、考えながら読んだので、ちょっと疲れた。やることがないので、自分の部屋であった場所をいろいろと漁る。弟が使ったあと、母が雑務に使っているので、僕の部屋の思影はない。

 なんとなく抽斗を開けると、小学校の頃の作文が出てきた。驚いた。ふと思ったが不帰の旅、何かを見つけて戻った者なしといわれる「自分探しの旅」にふさわしい終わり方があるとすれば、これではないのか。すなわち、自分が忘れている過去を他者として発見すること、まだ見ぬ未来と空間へと行くのではなく、単純に過去へと戻ることで、確かに見つける何かはあるのではないか。ということで、自分探しをしておられる諸氏には小学校の作文などを再読し正気を保って頂くのが良いのではないか。僕が見つけたのは忍者村でつくった小皿、絶滅しなかった恐竜図鑑、たぶん中学生のときに作った工作、学研ムーのカードゲーム、そして現在住む京都に修学旅行で来た際の作文や読書感想文である。ただ懐かしく新鮮だった。

 服喪ということを考えると、ことばに直すことへの躊躇がある。しかし、ことばは心の一時的依代なので、一体化している内に形成しないと蒸発してしまう。だからコピーをつくることで反響し余韻がかたちになるにしようと思った。明日は葬儀である。