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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:地下実験室B01、沈黙、京都

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2月23日 木曜日 晴れ

 夜更かしが続いている。昨晩も3時に寝てしまった。最後にけものフレンズをみたが、なるほど。続きをちょっと見よう。三話からがすごーい!らしい。

 午後一、某所研究所の地下実験室へ。なかなか不穏な感じである。暗い階段を下りていくと、そこには様々なものが積み上げられている。通りがかりに青い謎のプラスチックの瓶詰?が置いてあった。ちょうど人間が入りそうな大きさである。実験失敗したら...本当に生きて帰れるのだろうか...。

 とまあ心配も空しく、普通に一時間くらいで終わり報酬の図書券を頂いた。認知科学分野の実験なのだが、博論のデータになるそうな。興味深い世界である。朝も昼も食べていなかったので、その足で、惣菜バイキングに入って好きなものを食べた。鶏肉煮込うまい。

 夕方、NPO関係の方と遠藤周作「沈黙」の映画を見にいく約束があったので、三条まで自転車で鴨川を下った。映画の前に原作を読み直そうかと思ったが、結局できなかったが、まあ映画だし、見てれば分かるだろう。

 映画の感想は、とにかく音が良かったのと映像が綺麗だなと思った。もっとも映像でみた長崎や五島の海の色はもっときれいだったはずと思ったが、台湾での撮影らしい。そうなんだ。台湾といえば震災時の義捐金くらいしか知らないが、今後、いついかなる場所で台湾人にあっても珈琲くらいは奢らせてほしいと思う。

 王将、コメダ珈琲にて、見に行った人と神を信じること、その信仰による社会的公共性の構造など話した。帰り道、鴨川を北上しながら学校まで歩いた後、なぜか博士課程進学へのやる気が出てきていた。

 ひとつは久しぶりに自分の信仰を開示するような話をしたからかもしれない。最近はあまり信仰のことを考えていないように思う。以前ほど聖書を読んでいない。正確にいえば、日本語聖書を読んで、そこに何かを読み込むこととに慎重になった。聖書を読まないわけではなくて、ヘブライ語聖書をヘブライ語で考えたらどうなるのか、という僕の手には余る課題を、優秀な学友と最良の教師に囲まれて、味わう機会を得ている。僕には聖書を読めないことを理解できるようになった。神のことばの硬質さを感じる機会はあるのだ。週に一度、三時間弱だけ、僕は神のことばにさわっている。
 週毎の礼拝も、聖公会かカトリックに出席し、成文祈祷と典礼に心安らかにされ、誰とも会話せずに黙って出ていく。単なる実感の問題に過ぎないが、僕にとって、この形態が、もっとも礼拝の効果が高い。信徒との交流も重要だとは思うが、気疲れが勝るので、静かに退堂できる場所は本当に尊い。プロテスタントはいつも八釜敷い。

 聖書への熱心さ、自己の信仰に対する自分なりの確信めいたものは、憑き物が剥がれたように今は見当たらない。だからか、日常の中で、信仰は埋没し内在し、透明になっている。
 駄弁りながら、ひさしぶりに自分の信仰を他者に伝わる形にする作業をした。17歳の夏に信仰するようになったので、もう信者として暮らした時間のほうが長い。思春期の遠い昔日に、真夏の瀬戸内海のほとりで触れた讃美歌、聞いた聖書の話は、僕の内奥の奥深くに埋没し、もしかすると、もう蒸発しているかもしれない。しかし、その上には何層にも重なった樹木の年輪のように、幾多のキリスト教に関する何かが堆積している。だから、蒸発していても、そこにはその形があるのだと思う。
 もしかすると「沈黙」が、その空洞に響いたのかもしれない。神の沈黙だけではなく、棄教したロドリゴ司祭の周囲への沈黙。その理由をスコセッシは最後に、彼の掌に託して描いた。
 寒の戻り翌日の冬の鴨川を北上しながら、「京都には、家庭持ちの大人が読書会をするために気軽に集まれる空気がある」という話をした。人間のそういう側面を許容する懐が、この街にはある。だから過ごしやすいのかもしれない。30代や40代の人間が、仕事や家庭を置いて、文学が学問について若者と意見を交わすことが許容される場所なのだ。
 棄教した司祭の心は、僕などには到底及びつかぬ何かがあるだろう。だから単純に重ねるしかない。話しても仕方ない相手がいて、ただ無言で時流に呑込まれながらも信念を通すということが、歴史の中では多々あるのだろう。信仰の友からも、誰からも理解されない道、神にのみ理解され得る在り様というのは、意外に多いのではないか。端的にいえば、孤独のすべてがそうだ。晩年のマザー・テレサが、「神の愛がわからない」と表白した境地、それは十字架上の御子の叫び、詩編22篇冒頭に込められている。
 しかし全てが終わったことを、その叫びに込められたすべてが「完了した」ことを、先の三つの福音書を補完するべく書いたヨハネ福音書の記者は、イエス最後のことばとして、それを記した。日本語では何故か訳出されない詩編22篇の最後のことば「完了した」を福音書に残した。全ての殉教者の痛み、すべての疎外され孤独の中を生きる人々の苦しみは、十字架上で「完了した」ことを知らせるために。
 「沈黙」を観ながら、上記のようなことを思ったわけではない。ぼんやりと映像を浴びて帰宅した。元来の頭の悪さ、要領の無さもあって、あまり、その場で映像を解釈することが得意でない。苦手なのだ。帰宅して、誰かのことばを読み、思い出して、そんなことを思った。
 博士課程へいく資金は、未だ不透明なところがある。当初、なんとか自活可能であろうと思った仕事は半額分のみとなった。援助を求めざるを得ないが、それでも、以前と違って、バイトを3つほどこなして、何とか生活を立てようと考えている。37歳・院卒無職よりも、40歳・満期退学無職、または42歳・無職博士を目指すことを選ぼうと考えている。
 キチジローの捕縛後、何度も棄教し、ひたすらに沈黙したロドリゴ司祭のように、または王権の継承者でありながら北方を守る馳夫であったアラゴルンのように、人知れず神の務めを担うことは、多々ある。僕もそうなるのだろう。作者がカトリックという共通項のせいか、沈黙をみながら、トールキンの指輪物語を思い出していた。キチジローはゴクリに似ている。神の沈黙、人間の沈黙。その内奥に、または水面に何が映るのか。それは誰にも分からない。ただ、以上のようなことばが、深夜に流れている。