にっき:週末
2月4日 土曜日 晴れ
13時到着を目指し、元同居人社会人氏と面会のため御屋敷へ。一ヶ月ぶりである。15時頃、友人のラノベ作家氏が突然あらわる。結局、夜9時半頃まで、3人で様々に楽しく話をした。内容はあまり覚えてないが、楽しかったことは記憶している。
週末らしい週末だった。あとムーのガチャがあるらしい。これは興味ある。
異世界居酒屋「のぶ」(3)<異世界居酒屋「のぶ」> (角川コミックス・エース)
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にっき:ハシビゴロウ、かつ丼、新年
2月3日 金曜日 曇晴れ
ネットで流れてきたハシビロコウ、ずっとハシビゴロウだと思っていた。そしてクラッタリングという単語を初めて理解。人間が飼うと攻撃性が増し、加齢によって金色の目が青色になっていくとか、いろいろ興味深い動物。一つの動物を追いかける学者人生って羨ましい。
なぜか、かつ丼食べたくて10分ほど歩いて入った店が昭和全開だった。老夫妻、息子、バイトのおばさんが迎えてくれた。店主らしき爺さんはテレビで節分豆を投げる力士に連動して、手を降り声を出している。昼のワイドショーはいらないけど、こういう店が落ち着くようになった。自分の加齢を感じる瞬間である。かつ丼旨かった。
夜、読書会関係の皆さんが節分祭に行くというので、お炊き上げの火柱見たさで参加。凄まじい人出である。東京の満員電車よりはマシだろうが、中々やばい。しかしながら、大晦日や二年参りの原風景がここにあるように思う。初めて来たのに懐かしいのだ。おもしろいものである。
あまりに人が多いので、座れる場所もなさそうだしと読書会の皆さんから中座して研究室へ避難。その前に、佐世保バーガーのミニを食べて、焼きそば、唐揚げを少しずつ。宗教性とは結局、超越への感度の問題だなと思った。これで明日、道のゴミがなくきれいだったら日本人すげーと言えそうだが、たぶん汚いのだろう。珍しく、かつ良いものを見れた一日だった。
にっき:試問当日、節分前夜、二年
2月2日 木曜日 曇り
8時、起きてゴミ出し。寒いし眠い。午前中、ブログ更新。昨晩、読み返しただけだが、そのまま試問へ。いつも通る道を行こうとすると封鎖されてる。どうやら節分祭らしく歩行者天語くになるらしい。2時、なんか微妙に緊張してきた。教授の研究室が待合室となり、授業で使う共同研究室が試問会場。ドアに「試問中」と書いてあった。もはや今さら何をできるわけでもないので、用を足して、いざ突入。
お世辞でも日本哲学の先生に「今後に期待できる研究です」と仰って頂いたのは嬉しかった。拙さと緻密さ不足は指摘されつつも、主題と方向性は評価を頂いたようである。なんとか無事に終わった。良かった。意外にあっけなく、あっさりと一時間で終わった試問。内実がどうであれ、僕の二年間の結論が出た。
「一分ほど外に出てください」と指導教官から言われる。意味を理解しておらず、手間取ってしまった。どうやら、その場で教授たちが話して決まるらしい。結果、無事に合格内定。単位が足りていれば修了確定である。
外に出ると、まだ実感が湧かない。浮いているような感覚である。3年前、アメリカに住んでいたのに英語で足切りをくらって受験失敗。一年後、駄目元でもう一度だけ受験したら、神展開で合格してしまった。二次試験当日は、東京の同人即売会へ行くつもりだったのに、そうはならず、今がある。二年間か、不思議なものだ。
18時まで空いてるという、隣の研究室先輩と待ち合わせて正門前の学食で珈琲。行きがけに道路を封鎖していた節分祭について彼よりきいて興味が湧いたので案内してもらった。これが神社の本当の姿か、と驚く。普段は何でもないアスファルトで舗装された道路に、日本的祝祭の空間が現れている。これが神の顕現による日常の異化、神社の本当の力なのか。晴と穢、初めて理解した。こういうことだったのか。
※写真後にも続く
東大路から始まる参道は、おそらく数百は下らない露店が、特有のアジアの色彩を演出している。国内の様々な土地の名前に加え、インドカレー屋、秋葉原や日本橋にあるトルコ・ケバブ屋、韓国系の料理など国際色豊かだ。神社の祭りとその参道に突如として表れた祝祭空間は、日本的なフォーマットの中で国際性を担保していた。同化と排除の原理など非常に考えさせられる日本的宗教性の表出発露だった。
飲みにいくという友人は唐揚げとお酒だけ。僕は晩飯ついでにラーメンを食べた。屋台でラーメン食べたの初めてかも。旨い。にしても富山ブラックって何なんや。いや、旨いけど。そして机傾いてるけど。
食後、もう一度、研究室に戻ると、夕方ながら人の気配はなかった。構内の静寂、2年前または3年前の景色と記憶が隣にいた。
一度帰宅した後、今度は帰りがけに通る神社へ行ってみた。紅白の祝いで囲われた聖域内では、普段商売している店が「無料せつたい」と書いて、誰も彼もをもてなしている。近くの菓子屋が提供しているとのこと。関係を聞けば「ええ、三百年ほど前からお手伝いさせて頂いているんです」とのこと。何というか、京都的である。
政治・経済の首都は東京になってしまったが、宗教と文化の首都はまだ京都なのだ。小学生時の夏休みに、校庭で開催される盆踊りや神社の夏祭りを大好きだった理由が今になって分かる気がする。日常世界が突如として色を取り戻し、その空洞の周辺に住む人々の生のリアルを現出させる非日常性が、子供心にも魅惑的で戦慄的だったのだ。ハレとケの世界。宗教学の友人も言っていたが、日常アニメにおける四季と夏祭りの必然性などもここにあるのだろう。日常空間の彩色、色を取り戻す世界。四季を局所的に人工的に再生し構築して、日常を上書きするのが、寺社を中心とした祭りの意味なのかもしれない。
聖域の中では、商売人が率先して「赦し」を具体化している。それが祝祭なのだ。繰り返される四季と意味の定位。京都の冬の冷たさの中、火炭の横にあるお茶はほどよい温もりだった。
以下、吉田神社・節分前夜
以下、熊野神社・節分前夜