どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:部屋探し、映画、信心

8月5日 金曜日 晴れ

 一日、ひたすら検索し、いくつか問い合わせてみた。どうするか考えさせられる。いま住んでいるところから徒歩圏内に引っ越したい。

 夜、久しぶりに東南アジア在住の友人たちとスカイプで話す。藝大出身の友人いわく「映画を美術や芸術として知らないのは、あまりにも勿体ない」とのこと。最近どうしてるのかと思って声をかけたのだが、一時帰国中の間にハイペースで見たい映画を見まくっているらしい。いろんな文脈が分かれば楽しいんだろうけど、僕にはそれを今から見につける努力はできないというのが正直な感じである。

 あと、今後、相対的に日本が貧しくなっていく中で宗教の機能が大きくなるという話をした。確かにそうだと思うが、僕としては、イスイス団のように追い詰められたり閉塞感のある人々に暴発の大義名分を与えるのはヤバいと思う。また、宗教といっても弱っているときに縋るような形で得た信仰なり信心というのは、人間の回復と視野の広がりの中で破れるものなので、そのあたりのケアまで考えないと、ちょっと惨酷な気がする。

 少なくとも僕の場合は、キリスト教というものを信じる中で、牧師なり教会なり本なりが教える「正しさ」を学んできたが、結局、それらの正しさは突き詰めると相対的になる。ヘブライ語やギリシャ語で聖書を読めば「正しさ」が分かるという話ではなくて、分からないものは分からないと言わねばならない、という話。そういう「人間」の余地、誤差や間違いの幅を許容できなくなるような仕方での宗教の提供と消費は、社会状況如何を問わず、あまり良くないのではないか。自分を振り返って、そんなことを思ったが、眠くなっていたのもあり上手く言語化できなかった。