どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:講座制と純血主義、メディア、四畳半旅館

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8月25日 木曜日 晴れ

 朝、非モテ云々の話が目に入る。非モテとして思うのは、愛されるためには努力が必要で、その努力がきつい人も割にいるんじゃないか。数学が苦手と同じ質の話として。ただ願望はあるから言葉にはなる。宝くじ一億円当たればいいのに、と同じ。そもそもモテたことがなければ欲望はできない気もする。難儀なものだ。
 昼を食べながら昨日きいた界隈の絶望的な話を院生氏と。大学院の講座制とゼミって同義だと思っていたが勘違いだった。違うと知って驚く。端的に旧制大学が講座制、その後の大学が学科目制(~教授ゼミ)らしい。現在、その区別は廃止されている。

 講座制は研究の伝統を蓄積・形成できるが、組織の階層化という弊害をもたらした。対して学科目制は、機動性と効率化を求めたが、個人の力に依存する。従って、私大には知的体力ある後継が必要なので、私大の純血主義が生まれる。つまり旧帝の講座制に相当するのが私大の純血主義だったという話。

 早稲田の小保方事件は、私大が後継者を育てられなかったことの証左なのかもしれない。ただ自然科学系は、日進月歩であるので研究の伝統を形成するということの意味は、どちらかというと悪なのかもしれない。一方で人文学や社会科学系統だと研究の伝統を長く深く広く理解することが意味を持つ。だから伝統を形成するためには、講座制なり純血主義というのが必要になる。

 弊害含みの伝統を形成した旧帝、それに対峙した私学の構図は、カトリックとプロテスタント500年の歴史の縮図っぽくておもしろい。もっとも現行の大学行政では、そういう話が全部蒸発していて、企業として売上をいかに上げるか、みたいなことになっている。

 昨日、研究会の横で作業しながら立ち聞きした話と昼飯食べながら院生氏から聞いた話だと、友人教授の言うとおりであるが、もはや「学問の自由」などというのは存在しないのである。近代化の中核たる翻訳学問、国力の前提である人口が衰退・減少している国においては仕方ないことなのだろう。が、しかし、である。

 午後、ひたすら物件検索。もう一度シェアハウスに入ることを考えたが、女性専用ばかりで男性可のものが少ない。ぜひ女性専用物件を外せるようにしてほしい。または男性入居可のチェック項目つくるとか。

 夕方、専門分野絡みと友人の誘いによって、なぜか大手メディアの記者たちの飲み会に参加。お世話になった方に、僕が書いた記事のコピーを渡し挨拶できたので良かった。何枚も名刺を頂戴したけれど、誰でもいいから仕事を紹介してくれないだろうか。忘れる前にメモっておくと、明治期に大師号が増えた理由とキリスト教など各宗教が戦争反対やら抵抗権やらに歩めなかった理由はたぶん通底しているという話題が出た。京都の京都性(権威と権力の空洞性)の中で圧着した門跡寺院と京都宮内庁、そこに象徴される地方的エートス、その反転としての東京性。興味深く楽しく話して夜10時前、京都を出て大阪へ。途中まで友人僧侶と阪急に乗った。人の良さの滲む人である。

 深夜、明朝七時半、某企業役員と面会するので送れないようにカプセルホテル的旅館を見つけて宿泊。四畳半部屋で一泊3千円ちょっとである。なお友人は会社の接待でターミナル駅直結の一桁高いホテルにご宿泊。文字通りの格差社会なう。

 でも小さな部屋に座布団と机が置いてあるのは、すごく良かった。僕にはこういうのが合っている。「星を継ぐもの」が楽しい。

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