どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:メモ、父親になる、馴染む

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※友人の娘さん

9月12日 月曜日 曇りのち雨

 朝どこぞの尊敬する学者先生が、危機感の表明として書いた「宗●学会も終活かっ!」って表現を読む。流石です。センスあるわ。敬意を表してここに記す。

 午前中ブログ更新。昼食はそばと野菜炒めを作った。午後、引越用段ボールを作成。引越は大変である...。学校など諸連絡と申請終え、夕方に大阪なんばにて友人と面会。行きしなに岩波トレルチ本を再読。主張を途中までだけではあるが、端的にまとめるとこうなる。まずギリシアの哲学、ローマのキリスト教を継承したのが欧州ルネサンスと宗教改革。両者を一体的にみる向きもあるが、基本的にそれぞれ違う源泉に基づいた違う思想運動である。両者は新プロテスタンティズムにおいて融合した。しかし、結局古典主義と中世的な宗教精神に逆戻りした。結果、カウンターとしての啓蒙主義が現れる。啓蒙の前提となるのは理性と国家論。国家の基礎になるのは契約。また契約理解の新解釈は教会法に対する新しい解釈を産み出すにいたる。これらの生成はイタリアからドイツへと中心の移転を見ることもできる。

 久しぶりに会う友人は父親となっていた。なんでも以前は新幹線車内で聞くに耐えなかった赤子の泣き叫ぶ声が、出産に立ち会った後は「愛しさ」さえ覚えるようになったという。すさまじい変化である。生死に参与し転換する実存または人格のかたち。ほとんど宗教的な経験なのかもしれない。その驚異と転換を、すっきりと言語化する彼の眼差しは、どこか仏像の笑みにも似た温かさがあったのは、僕の気のせいだろうか。

 にしても思うに、社会の資本や注意というのは、こういう新しい生命へと注がれるのが本能的なものだ。そして、親になるというのは、こういう新しい人々へどこか何かを譲る気持ちを含むものであろう。一方で、親になることのない僕のような人々は、どこかしら絶対的に譲る気持ちのないまま、社会の興味関心から外れて異形の現象として跋扈するに至る。たぶん僕が親になることはないだろうから、話を聞けて良かった。生と死、ありふれた日常であるが、しかし。友人のところに生を受けた新しい人よ、あなたに神の祝福がありますように。

 余談ではあるが座って食べていたら、ちらりほらりと常連の皆々の顔が分かるようになってきた。また声優やらモデル活動もしているメイドさんに話しかけられた。少しずつ景色に馴染めているならば幸いなことである。

 夜10時、友人と様々に話して館の外へ。集中講義の疲れが残っていることに気づいた。地下鉄へと向かって、乗り換えたあとは寝てしまった。大学最寄駅を出た途端、雨が強くなった。原付なので体の前面だけシャワー浴びて帰宅。無事にご帰宅し帰宅した一日だった。