どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

土曜夜の雨。

全国的に?桜が咲いたりもしたらしいが、今夜の雨でどうなるのだろうか。昨日はだらだらと過ごして、今日は、自分がいる分野に関してのスカイプ家庭教師的なことを少しだけやって、あとはダラダラしていた。引越しのために段ボールを一箱だけ片付けた。つか、しばらくは荷物を置いておくのは問題ないようなので、それでも良いかもしれない。

 

二つ、ぼんやりと考えた。

 

一つは、最初の三年説について。結局、僕も誰もが通るように、三年という季節を通っているだけなのかもしれない。確かに、気合を入れて、あと一年頑張れば、割に便利な通行手形が手に入ろう。でも、そういう肩書を手に入れることに興味がないし、そもそも、その分野において論文を書きたいほどのことがない。諸外国語も古代語も、その文学を読もうという意欲がなければ、勉強は続かない。アニメや漫画、小説の方が楽しいからだ。雨に流れて行く春の匂いのように、僕の未来は夜の中でまだ静かに眠っている。

 

もう一つは、コミュニケーションにおける人格主義について。僕がいま所属している人間関係から遠からず離れていくことになるわけだが、それを見て、ある人が「傷ついたから」と説明したそうな。いや、それは全然違うんですけど・・・w

なんていうか、常に人間関係が良くいえば人格的な関わりであることを求める人々は多い。が、人間関係がドライであることもまた事実だと思う。悪くいえば、情緒的な人間関係が気持ち悪いというか窮屈な人もあろう。僕がそうだ。ということで、何でもかんでも、人の所作一つをとって、その原因を両親だの生育環境だの過去のトラウマ=傷にもとめる鋳型の思考はどうにも好きになれない。もっとも、僕もまたそういう鋳型を相手にはめて考えてることは否めない。人生は筋違いなレッテルの貼り合いか。世知辛いな。

 

僕がいまの人間関係から離れていく理由がまさにここにある。傷ついたからではない。金にならないからだ。飽きて、それを続ける理由がなくなったからだ。そして、僕の周囲のお決まりの思考に興味を失ったからだ。確かに挨拶も交わしたくないほどの人はいるが、それでも傷ついたわけではない。例えるなら、競馬で賭けた馬が負けたのに似ている。賭けたのは僕であり、負けたことに文句はあるし悔しさも悲しさもあるけれど、傷つきはしない。そういうことだ。そこらの勘違いがまさに窮屈だ。

 

で、その弁明というか挨拶があるわけだが、まあ、何も言わず、ただ、お世話になりましたと頭を下げて終わろうと思う。ということで、本人たちに言えないから、ここに書いて終わらせる。土曜深夜、日曜未明。外は春の雨が降っている。