どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき

6月21日 日曜日

 朝、近所のカトリックへ行こうと思ったが雨が降っていたのでやめた。昼過ぎ、御坊さんより連絡がありチケットが余っているので、イタリアの天才ピアニスト、ジョヴァンニ・アレヴィのコンサートを見に来ないかとの打診があり、音楽的無教養を恥じつつ参加した。タイトルと三行程度の解説から膨らむ音の印象が楽しかった。


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Giovanni Allevi ARIA - YouTube

 拝聴後、お坊さんとなんやかんやと雑談。おもしろいことが出来たらいいが、金と場所、人がいる。難しいもんだなぁ。帰宅後、しばらくして、礼拝へ。以下、参加しながらフリック入力したメモ。

夕礼拝、要旨。
聖歌、開会の祈り、聖歌、聖書朗読、聖歌、証二つ。
黙示録22章10-13節「初めと終わり」
ホーリネス中田重治、四重の福音、弾圧を覚える月間。
新生、聖歌、神癒、再臨。今日は最後の週で再臨。

ペリコーペ「Rev.22:6-21キリストの再臨」
黒田官兵衛の劇中の松繁る扇子のような暗号としての黙示録。
迫害下で描かれた黙示録、では、その結論とは何か。
13: わたしはアルファでありオメガである。

迫害史としてのキリスト教。キリスト教徒にとっての最後はイエス
初めに神が天と地を、終わりはイエス。神の善いみこころによって始まり、終わる世界という物語に住む私たち。三度繰り返される「すぐに来る」しかし、失望に終わった。自分の願う通りの始まりや終わりではないが、神のみこころに希望がある。

教会の幼稚園、様々に思うところがある。宣教もまたしかり。
村ごと信者になったが、祝いごとの度に他の村を襲って
首を狩る習慣があった。習慣を止めさせるために、最後の犠牲者として、自分の首を出した村の長老。村人に突きつけられた十字架の意味。

この世界という物語の最後は、十字架の主が神の国の門を開きに来てくださる。この希望に生きる者とされたい。

聖歌、献金、祈り。 おわり

 

内村鑑三の再臨運動については少々の研究をしたことがあるので、その同僚だった中田重治が出て来て、色んなことを思い出した。帰宅したら、同居人の友人が来ていた。キッチンでは、西洋古典文学についての評論会が始まっていた。深夜、お坊さんに借りた「まおゆう」の漫画を読みながら寝た。あわただしい一日だった。


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