10月18日 土曜日
昨晩、遅くに友人のお坊さんが某新聞のコラムを連載しており、そこで非常に良いことを書いておられたので、それに対する応答などをしたためていたら、今朝は起きるのが遅くなってしまった。以下、彼がその連載を紹介する際に書いていた部分である。
…近代的な歴史観とインド(あるいはアジア)が持っていた歴史観を対比させ、超克していこうと試みながら書いている。大乗仏教の経典群の成立年代が釈迦在世から数百年以上の乖離があるとわかったうえで、般若心経や法華経をはじめとした大乗仏典を、初期の経典群以上に真実なるものと受け止めていくには歴史意識への理解が不可欠だと思う。
私自身、このような仏教の歴史意識を理解するまでに10年以上の歳月を重ねた。この間、結構苦しかった。でも、最近ようやく仏教の歴史意識をどう提示すべきかが見えてきた。光が差してきたように感じている。
非常に真摯な仏教者のことばに感じ入るところ多く、僕として思うところを友人に送っておいた。個人的には、彼の文章を読んで、歴史を実在の、または実存の「重さ」を以て語り得ることは、キリスト教などアブラハムの宗教の専売特許だとどこかで思っていたけれど、そうではないことの面白さを知った。
19世紀以降、あらゆる正典は、歴史的・文献学的批判に晒され、アレもコレもどれもこれも、何もかも、イエスのことばではなく、ゴータマブッダの言葉ではないとされた。しかし、そこまで学問が科学的に突きつめたからこそ、今度は、本来の宗教的・信仰的な領域が明確になりつつある。
現在は科学の時代だ。科学とは、自然・社会・人文に関する再現可能な体系知のことだ。宗教は、科学以前のものだから「学問的・科学的」でないとされる。
しかし、宗教には宗教の再現可能性がある。キリスト教における「祈り」、仏教における「瞑想」など、各宗教の持つ身体性や解釈の伝統は、個別具体的な信者の経験値を再現可能な宗教的手続きの体系知として積み重ねて継承してきたものだ。神学には神学の、教学には教学の学問性があるのだ。そこには現代では遠く忘れられた記憶の連なりが海のように広がっている。
科学は記録を求めるが、実は記録とは記憶なしには成立しない。その意味で仏教という大海から、近代的な歴史観の成果を踏まえつつ上座部との緊張を背にしながら、大乗を全面的に受け止め、なお21世紀の日本で伝わることばで書かれたのが友人の言葉だと思った。僕は仏教徒でないけれど、深く感じ入る文章を読めた。幸いである。
閑話休題。
遅く寝て、遅く起きたので、気が付くと、あっと言う間に教授に誘われた研究会の時間となった。僕が少しだけ調べたことのある主題であり、呼ばれたのだと思うが、結果、楽しい時間を過ごすことになった。上記のお坊さんの話にも通底するが、現代日本を描くためには、どうしても、明治以来の「近代」ということを複眼的に立体化せねばならない。研究会の中でも出てきた単語でいえば「他者化」することで、即ち、客体化することで、歴史化せねばならない。
帰宅後、院生がつくってくれた焼魚を食べながら、今期アニメを適当に流してみた。院生氏が唖然としつつ、爆笑していた。確かに説明を要する内容だったと思う。個人的には一話でお腹いっぱいだが、とりあえず二話を観ようと思っている。
相当に眠かったのだが、夜11時、東南アジア在住の研究者に、唐代中国の宗教事情について聞きたく連絡。様々に教えてもらい楽しい時間となった。が、再び夜遅く寝ることになった。
TVアニメ「俺、ツインテールになります。」PV第2弾 - YouTube
今週のお題「我が家のご馳走」