- be kind to everything that lives ....... pic.twitter.com/UYM2Rajkx9
— Köksal Akın (@Koksalakn) 2018年1月24日
1月24日 水曜日 晴れ
17光年離れた星系への探査員となり「人文学の博士ですし、人類の可能性のために行ってきます」と親や友人に挨拶する夢をみた。まあ確かに博士課程というのは、人類の可能性の範囲を広げるからこそ価値があるわけだが、しかし。
ふと人間の承認欲求と自己実現は老若男女問わない問題だが、自己否定の契機の少ない人、つまり外的価値を内面化した人々は、価値の変動を受容できず悲惨な目に合ってる印象あるなと思った。
昼、久しぶりの若者と昼食。咳がなかなか止まらないが、なんだかんだと話す。20代半ば、なるようにしかならず、やりたいようにしかやれない時期である。とても他人様に何かをいえるような者ではないのだが、思うところを若者に述べた。
余談ながら、社会問題が失敗する場合の、つまり説得できない場合の仕組みについて「問題・方法・主体」ということを考えたが、これが芸術などの作品の普遍性にも適用できると思った。すなわち、何か問題がある、その問題を伝える人なり方法、手段がある。それを聞いて、私はどうするか、ということである。簡単にいえば、人が説得されて動くには、まずなぜその話を聞かなくてはならないのか(問題)、次に、どうして、その話しをこの人から聞かなくてはならないのか(手段)、最後に、では、私はどう関わるのか(主体)という手順を踏まなくては、人間は説得されないのである。
で、この説得に失敗すると、問題と手段は単なる方法になる。社会問題に限らず、説得に失敗する理由は、問題を伝える人が、聞く人の主体に自己同一化を求めるところにある。そうなったとき、問題は、たんなる印象に代わる。つまり難しそうな問題を伝える面倒な人になってしまう。
とまれ、この問題・方法・主体というのは、作家の描きたいもの・作品・読み手、という風にポジティブにも変換できるものだ。つまり、普遍性のある作品というのは、言語、文化、時代をすら越えて、作品に触れる者に、主体、方法、問題を逆にたどらせる力を持っていることになろう。
そんなことを考えた。帰宅後、一日ゆっくり過ごした。イスラム教徒の墓が土葬なので九州にない問題をニュースで読む。たしかに問題だが、こういう場合は、自国に帰るしかないのではないかと思う。普通、各自治体が条例で一週間以内の火葬とかを定めてるように思うが、どうなんだろうか。宗教に関する規定は、そこに含まれていないんだろう。当然ながら。しかし、そもそも土地ないわけだし困った問題である。
夜、今度の一万字原稿関係者が集まっているというので一瞬だけ顔を出してケンタッキーを買って帰宅。いよいよ明日は、毎月固定で家賃分をもらっている原稿を仕上げねばならない。
そういえばネットで、ホバークラフトのラジコンをみかけたが懐かしい。たぶん同じものを持っていた。いま思うと、かなり夢のあるおもちゃである。夜、所用ありインドネシア人と話した。
みんなの憧れ
— 寄木はこね@「大判焼き」です (@hakonenyosegi) 2018年1月23日
ホバークラフトRC「タイフーン」 pic.twitter.com/2amyQBg9dK